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美しい飛び去る

宗教は〝エゴイズム〟

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宗教は〝エゴイズム〟

そう考えてみると、とてもわかりやすいのだ。わざと片仮名を使っていた。〝エゴイズム/Egoism〟──「〝自分〟の〝人核〟にのみ、拘泥すること」だ。対訳を作るなら〝自己執着〟だろう。〝身勝手〟でもいい。


〝良いか悪いか〟の話ではない。マザー・テレサを考えてみてほしい。多くの人が真っ先に思い浮かべる〝宗教者〟だろう。〝20世紀の偉人〟のひとり、〝聖母〟と呼ばれるキリスト教修道女、〝献身の人〟、〝愛の人〟も、〝エゴイズム〟に突き動かされていたのではないか──と考えてみてほしいのだ。決して〝嫌なこと〟をやっていたわけではないはずだ──と言いたいのだ。誤解されないよう繰り返すが、〝嫌なこと〟を、〝嫌々〟やっていたわけではない。インド・コルカタの貧民を、生涯を賭して救済することに、〝悦び〟を感じていたはずなのだ。喩(たと)えるなら……肉体的にも、精神的にも〝苦痛〟をともなう、登山やマラソンと同じように……〝苦痛〟があるからこそ〝悦び〟がある──という話は、また後に書く。『幸せはない』として項を立てる ……。


つまり、宗教的に「もっとも崇高」とされている〝自己犠牲/Self Sacrifice〟も、その根本は〝自己満足〟──〝利己〟に他ならないではないか──と、そういうことなのだ。わかりにくいか……もう一方のアプローチを使おう。


旧約聖書『創世記』にある。神は塵を集めてアダムを作った、アダムの肋骨を一本取り出し、イヴを作った──これに疑問を感じたことはないだろうか? 男尊女卑の〝社会〟にいる〝作者〟が見えないか? もっと直覚的にわかりやすいかもしれないのは、アダムとイヴが〝エデンの園〟から追放された──のくだりだ。禁じられていた〝知恵の木の実〟を口にしたきっかけは、なんだったか。「〝狡猾な蛇〟にそそのかされたから」なのだが、そこにはすでに、〝蛇=悪者〟とする考え方があったことにならないか法國紅酒


まったく〝当たり前〟なのだ。〝蛇〟が好きな人は、いまも滅多にいないだろう。手足のない姿も、身をくねらせてすばやく移動し、滑るように水面を泳ぎ、巧みに木にも登る生態も、〝不気味〟な印象を与える。毒を持つ種類もいるから、〝悪者扱い〟することには、それなりの意義もある。まったく〝当たり前〟な〝人〟の〝意識〟が見えるではないか……。


自分の姿に似せて──という部分も、〝人〟の〝身勝手〟だと考えれば、とてもわかりやすい。たとえばヒルが、「神はご自分のお姿に似せて我々をお作りになられた!」と言ったとしたら、どうだろう。ナメクジは言うだろう去斑
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